家じまいの哲学 もしも古代ギリシャ哲学者だったら 第4章

第4章 感情の壁と向き合う

“The soul has three parts: reason, spirit, and desire.” — Plato
(魂は三つの部分から成る――理性、気概、欲望である)

家じまいの哲学 第4章 感情の壁と向き合う


4.1 心が揺れる瞬間

家じまいを始めると、思いがけず心が大きく揺れる瞬間に出会います。

捨てるか残すかを前にして、理屈では「要らない」とわかっていても、手が止まる。
涙が込み上げたり、罪悪感にかられたり、逆に苛立ちを覚えることもあります。

これは自然なことです。なぜなら、家じまいは物を扱う行為であると同時に、心の深層に触れる行為だからです。


4.2 プラトンの「魂の三分説」と家じまい

プラトンは人間の魂を三つに分けました。

  • 理性(Reason) … 正しい判断を下す力
  • 気概(Spirit) … 誇りや怒り、感情のエネルギー
  • 欲望(Desire) … 快楽や所有への欲求

家じまいの現場では、これらがせめぎ合います。

例えば――

  • 理性は「もう使わないから手放そう」と告げる。
  • 欲望は「まだ役立つかもしれない」「惜しい」と囁く。
  • 気概は「親の思いを裏切ってはいけない」と反発する。

そのせめぎ合いこそが「感情の壁」なのです。


エピソード① 「古い食器棚を前に」

ある男性は、祖母の代から受け継がれた古い食器棚を前に悩みました。

理性は「大きすぎて使い勝手が悪い。処分すべきだ」と告げる。
欲望は「高価なものだし、残しておけば価値があるかも」と耳打ちする。
気概は「祖母に申し訳ない。手放せば裏切ることになる」と胸を締めつける。

三つの声に挟まれ、彼はしばらく動けませんでした。

けれど最終的に、棚の一部を修復し、小さな飾り棚にして残すという折衷案を選びました。
それは、三つの声が調和した瞬間でした。


4.3 感情を抑えるのではなく、調和させる

「感情の壁」を乗り越えるとは、感情を押し殺すことではありません。

大切なのは、三つの声に耳を傾け、調和のかたちを見つけることです。

プラトンは「魂の秩序こそ正義である」と説きました。
つまり、理性が欲望と気概をうまく導き、三者が調和するとき、心は穏やかになります。

家じまいでも同じです。

  • 「どうしても残したい」ものは、残してよい。
  • 「使わないが意味がある」ものは、新しい役割を与えればよい。
  • 「残す理由が見つからない」ものは、感謝を込めて送り出せばよい。


エピソード② 「手紙を前に泣く娘」

ある娘は、母からもらった手紙を捨てることができませんでした。

  • 理性は「残しても読まない」と言う。
  • 欲望は「全部抱えていたい」と主張する。
  • 気概は「母の思いを無にできない」と叫ぶ。

彼女は泣きながら、数枚を残し、あとは写真に撮って保存しました。

こうして「残す」「手放す」「形を変えて残す」という三つの方法を調和させたのです。


4.4 「感情の壁」を超える実践的な工夫

  1. 三つの声を自覚する
    「理性は何と言っているか」「欲望はどう訴えるか」「気概は何を守りたいのか」を紙に書き出してみる。
  2. 折衷案を探す
    残す/デジタル化/人に譲る/一部だけ残す。0か100ではなく「中間の形」がある。
  3. 感情に時間を与える
    すぐに決められないものは「保留箱」へ。数週間後に再び見直すと、感情が変わっていることがある。


4.5 調和の先に見えるもの

感情の壁を越えるとき、私たちはただモノを整理するのではなく、心を整理しています。

“The soul is its own master when it is in harmony.” — Plato
(魂が調和しているとき、それは自らの主人である)

家じまいは、外の秩序を整えると同時に、内なる魂の秩序をも整える営みなのです。


4.6 形あるものと、その背後にあるもの ― イデアの視点

プラトンは「イデア論」において、この世界にあるモノや出来事はすべて「本質の影」にすぎないと説きました。

家じまいで直面するモノも同じです。

  • 古い写真は、単なる紙切れではなく「家族の時間のイデア」を映す影。
  • 壊れた時計は、「共に過ごした時間のイデア」を呼び覚ます存在。
  • 手紙は、「心を交わした記憶のイデア」のかたち。

だからこそ、モノを前にすると感情が揺れるのです。


エピソード③ 「母のカップ」

ある女性は、母が毎朝使っていたティーカップを手放せずにいました。

カップそのものは欠けており、もう使えません。
しかし彼女が惜しんでいるのは陶器ではなく、母と共に過ごした朝のひととき――
つまり「母との時間のイデア」でした。

最終的に彼女は、カップを写真に撮り思い出として残しました。
実物を手放しても、「本質」は心の中に生き続けると理解できたからです。


4.7 イデアを意識すると、手放しやすくなる

イデア論の視点に立つと、次の気づきが生まれます。

  1. 本質は失われない
     モノを手放しても、その背後にある思い出や意味は残る。
  2. 影に執着しない
     形あるものに過剰に執着するのは、影にしがみつくこと。
  3. 本質を選び取る
     何を残すかではなく、「何を心に残すか」。


4.8 感情の壁を超えるもう一つの道

「魂の三分説」で内部の葛藤を調和させ、
「イデア論」でモノの本質を見る。

“The things we see are shadows of what we cannot see.” — Plato
(私たちが目にするものは、見えないものの影にすぎない)

家じまいとは、影に執着することをやめ、本質をすくい取る作業です。


4.9 心の調和から家族の調和へ

感情の壁を越えた先には、家族との対話があります。

家じまいは個人の作業にとどまらず、
家族の歴史や未来をつなぐ対話の場です。

第5章では、家じまいを「家族の哲学」として捉え、
世代を超えた思いをどう調和させるかを考えます。


章末コラム:影を手放し、本質を残す

プラトンのイデア論は抽象的に感じられますが、
家じまいにおいては非常に身近な意味を持ちます。

私たちが手に取るモノはすべて「影」にすぎません。
しかし背後の本質――家族のぬくもりや時間の記憶――は決して消えません。

もし手放すことに迷ったら、こう問うてみましょう。

  • このモノの「影」に執着していないだろうか?
  • 本質(イデア)は、すでに心に刻まれているのではないか?

家じまいとは、影を離し、本質に還る作業です。
失うのではなく、本質に近づくこと――それが家じまいの本質なのです。


実務のヒント:感情の壁を乗り越える

  • 感情を無理に抑えず「泣いても語ってもよい場」として進める
  • 強く心を揺さぶるモノは「象徴」か「本質」かを見極める
  • 家族で感情を共有し、共同作業として取り組む


出典

Plato — “The soul has three parts: reason, spirit, and desire.” (The Republic)
Plato — “The soul is its own master when it is in harmony.” (Phaedrus)
Plato — “The things we see are shadows of what we cannot see.” (The Republic)
Plato — Theory of Forms (Phaedo, The Republic)