あとがき 家じまいの先にあるもの
目次
家じまいの哲学をめぐって
本書を通じて「家じまい」という行為を見つめてきました。
家じまいは、決して簡単な作業ではありません。
思い出にあふれた品々を手に取り、迷い、手放す――
その一つひとつが心の中で波を立てます。
しかし、そこで感じる葛藤や迷いこそが、人生の深みを映し出しています。
家じまいは「終わり」ではなく、むしろ「これからの生」をどう生きるかを考えるきっかけになるのです。
ソクラテスの言葉にあるように、私たちに求められているのは
「ただ生きること」ではなく「よく生きること」です。
そしてモンテーニュが語ったように、「死を学ぶことは生を学ぶこと」でもあります。
家じまいを通じて私たちは、
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これまでを整理し、
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これからを整え、
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未来に託す姿勢を形にします。
それは、単なる後片付けではなく、
生き方そのものを見つめ直す哲学的な実践です。
家じまいを哲学として考える意味
家じまいを「哲学」として捉えることには、大きな意味があります。
なぜなら、片付けを「作業」としてのみ捉えれば、そこに残るのは空虚な疲労感かもしれません。
しかし、それを「問い」として捉えれば、
そこから導かれるのは「自分らしく生きるとは何か」という深い気づきです。
哲学はもともと「愛智」、すなわち知恵を愛する営みでした。
家じまいを哲学として考えることは、
**「残すか捨てるか」ではなく「どのように生きるか」**を問うことです。
モノと向き合う行為は、同時に
「自分の生と死にどう向き合うか」を探ることになります。
だからこそ、家じまいは「哲学の入口」であり、
誰もが自らの暮らしの中で行える思索の実践なのです。
もしソクラテスなら、どのように家じまいをするのか?
想像してみましょう。
ある日の午後、アテナイの片隅にあるソクラテスの家。
老いた彼が弟子たちと共に、少しずつ家の整理を始めていた。
テーブルの上には、
使い古したマント、割れかけた杯、弟子たちから贈られた小さな巻物が置かれている。
クサンティッペが眉をひそめて言った。
「あなた、こんなに古いマントはもう捨てましょう。
ほら、穴だらけじゃない。見苦しいわ。」
ソクラテスはゆっくりと手で布をなでながら微笑む。
「このマントをまとって広場に立ち、人々と語り合った日々を私は覚えている。
しかし、それを残しても真理が布に染み込んでいるわけではない。
もし本当に価値があるなら、それは弟子たちの心の中に残っているはずだ。」
プラトンが口を挟む。
「師よ、でも人は物を手に取ることで、過去の時間を思い出すものです。
あなたが手放してしまえば、我々は触れるたびに思い出すその機会を失ってしまうのではありませんか?」
クリトンも加わる。
「形ある物を残すことは、弱い我々への助けです。
問いを残すことが大切だとしても、問いを思い出す“きっかけ”も必要なのです。」
クサンティッペは腕を組み、弟子たちに同意するように頷いた。
「そうよ。あなたの弟子たちはあなたを偉大だと言うけれど、
私は毎日の暮らしを共にしてきたの。
家の中のものをただ捨てていくばかりでは、寂しいじゃない。」
ソクラテスは一同を見渡し、少し声を低めて言った。
「君たちは正しい。物は思い出を呼び起こす助けになる。
だが、物に頼りすぎると、記憶そのものが形に縛られてしまう。
問いは目に見えないが、物以上に確かに残るのだ。
『なぜ生きるのか』『どう生きるべきか』――
その問いを続ける限り、私という存在は消えないだろう。」
静けさが部屋を満たした。
クサンティッペは深いため息をつき、それでも小さな笑みを浮かべる。
「やっぱりあなたは“物より問い”なのね…。
それならせめて、この杯だけは残しておきましょう。
弟子たちがあなたと語り合った証として。」
ソクラテスはその杯を手に取り、軽く掲げて微笑んだ。
「よかろう。ただし、この杯は真理を宿していない。ただの器だ。
だが、君たちがここで語り合い、真理を求め続ける限り、
この器は永遠の証になるだろう。」
こうしてソクラテスの家じまいは、
**「物を残すこと」と「問いを残すこと」**の間で揺れ動きながら、静かに進んでいった。
残されたのは、わずかな品々と、
それ以上に強く響く問いかけだった――。
著者から読者へのメッセージ
読者の皆さまへ。
本書を読み進めてくださったあなたは、
すでに家じまいの入口に立っています。
家じまいは「いつかのこと」ではなく、
今この瞬間から始められる生き方の選択です。
家じまいとは、ただの片付けではありません。
それは、これまでの人生を抱きしめ直し、
そして未来に向けてそっと手をひらく営みです。
ソクラテスがもし現代に生きていたなら、
きっと私たちにこう問いかけるでしょう。
「あなたは何を残すのか?
物か、それとも問いか?」
その問いは、どこか切なくもあり、
同時にやさしい光のようでもあります。
私たちは皆、いつか家をたたみ、命をたたむ日を迎えます。
けれど、その時に残るのは、豪華な品ではなく――
愛情や問いかけや、ささやかな希望なのかもしれません。
どうか本書を閉じるいまこの瞬間、
身近な一つの物を手に取り、問いかけてみてください。
「これは、未来に託したいものだろうか?」
その問いを立てたとき、
あなたの家じまいはすでに始まっています。
そしてそれは、
あなたが「よく生きること」へと歩み出す、
静かな第一歩になるでしょう。
謝辞
本書を執筆するにあたり、多くの方々の支えと知恵をいただきました。
まず、「家じまい」という人生の節目を実際に経験し、
その声を私に届けてくださった方々に心より感謝いたします。
思い出を手放す痛み、整理を終えた後の安堵、
そして未来へ託す希望――
それぞれの体験談が、この本を生きたものにしてくれました。
また、古代哲学から現代の実務に至るまで幅広く議論を重ねるにあたり、
研究者や実務家の知見は欠かせませんでした。
図書館、文献、そして対話を通じて学んだことは、
単なる知識を超えて「家じまい」を思想として考えるための土台となりました。
そして最後に、読者の皆さまにお礼を申し上げます。
この本を手に取ってくださったこと自体が、
「よく生きる」「よく手放す」という問いを共に考えてくださった証です。
その問いを抱え続けてくださることこそが、
私にとって何よりの励ましです。
